第119話 『歌舞伎座回顧(四)、河東節の今後』

 昭和四十二年は河東節が半太夫節から分かれて独立して以来、二百五十年になるという事で、様々なイベントがあった。

 元祖河東が独立して河東節を創派したのは享保二年(1717)とも又、享保三年ともいう。

 調べてみると、享保四年説まで出てきてはっきりしないのだが、その詳細については『江戸吹き寄せ』の第二十八章から第三十二章までの「河東節の謎」に書いておいたので、ここでは触れない。

 故田中青滋先生は、享保二年から昭和四十二年(1967)はちょうど二百五十年であり、享保三年からすると、二百五十年目に当たるので、マアいいでしょう、といわれていた。

 そういえば、昭和三十五年(1960)に「助六由縁江戸桜」二百年と銘打って有名人を糾合して「助六」の大合唱を催したのも、「助六由縁江戸桜」(昔は「由縁」を「所縁」と書いた)の初演は宝暦十一年(1761)の春、市村座で市村亀蔵、後の九代目市村羽左衛門が助六を演じた「江戸紫根元曽我」で、その時の河東節の名題が「助六由縁江戸桜」で、昭和三十五年はその二百年後ではなく二百年目だった。

 そんな訳で、昭和四十二年には竹内道敬先生の『河東節二百五十年』という本の出版の外、歌舞伎座、三越劇場で記念演奏会も催された。

 三越劇場の会は一般向けに解放されて無料だった。(三越では河東節関係資料の展示もあった)

 私の記憶では、珍しく作曲家の團伊玖麿氏の講演などもあり、演奏の曲目に「廓八景」があったことを覚えている。

 その日、諸準備のため開店前の三越に行かれた田中青滋先生の話。(先生は十寸見会の理事で、実務上の代表の役割をつとめておられた)

 ――三越百貨店の従業員通用口で、「河東節の者です」といって通ろうとしたら、その時、偶々三越で四国の物産展をやっていて、「ああ、土佐ぶしの方ですか」と、河東節(かとうぶし)を鰹ぶし(かつおぶし)と間違えられたという――

「たくまざるユーモワですね」

 と先生は笑って話された。

 その話で思い出したが、歌舞伎十八番の助六の上演が決まると、助六を演ずる役者と出演の河東節連中とで「顔つなぎ」という会をやるのが恒例で、今回の「歌舞伎座さよなら公演」でもそれに先立ってホテル・オークラであった。

 四月の歌舞伎座の助六(團十郎丈)に引き続いて、五月の新橋演舞場で海老蔵君が助六を二十三年ぶりに水入りで演ずることが決まっていたので、本来ならば二回やる「顔つなぎ」をオークラでの一回で済ませてしまった。

 助六の水入りは、嘉永三年(1850)三月の中村座で、後に大坂で自殺した八代目團十郎が演じた時、その天水桶の水がお銚子一本一分で飛ぶように売れ、忽ち売り切れたという。

 一分を現在の金額に換算するのは難しいが、少なくとも二、三万にはなるだろう。

 オークラの会場で海老蔵君が一人で私にいる方へ歩いてくるのが見えたので、呼びとめてその八代目團十郎の話をしたら、「知ってます」といった。

 そこで、私が、

「あなたも水入りの水を売ったらどうですか。海老入り、鰹ぶし(河東節)入りって売り出せば、結構売れるんじゃないですか」

 というと、彼は「ワハッ!」と豪快に笑って去って行った。

 さて、話を昔に戻すが、昭和四十年代頃までは河東節をやる人は大抵長唄とか清元とか、何か他の邦楽をさんざんやってきた人達だった。

 つまり邦楽の素養があったということである。しかし、今の河東連中の中には小唄しかやったことがないとか、全くの邦楽の初心者さえいる。

 河東節連中には本名取りと助六名取りがある。本名取りというのは河東節を習って名取りとなった者で、助六名取りというのは劇場に出演のため「助六由縁江戸桜」一曲だけ覚えた者で、その時の公演だけに出演を許されるが、別の公演の時には又、改めて名前を貰い直さなければならないのである。

 昔は本名取りが中心で、助六名取りは補助的な存在だったが、今は助六名取りが大多数で、本名取りはその半分、全体の三分の一ぐらいではないかと思う。

 四月の歌舞伎座のさよなら公演の河東節連中は二百名を超え、今までの最多人数となった。

 最近の名取り名簿が手許にないので正確な本名取りと助六名取りの人数は分からないが、歌舞伎座のさよなら公演ということで出演希望者が増え、総人数が膨らんだものと思われる。

 新規参加の人達は当然助六名取りだから、いつもの河東連の中で助六名取りの占める割合が高くなる。

 しかし、急稽古で「助六」一曲を覚えた、それらの人達の中で、何人、一人で唄え、いわれて、唄える人がいるだろうか。

 そうした助六名取りが大多数の十寸見連が、歌舞伎の河東節連中なのだ。

「助六」一曲しか知らない出演者でも確保出来れば、芝居の助六の上演に支障はない。

 これから何十年か先、河東節をやる者が誰もいなくなっても、「助六」一曲しか知らない河東節連中がいる限り、歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」は上演可能なのだ。

 平成七年に亡くなられた田中青滋先生は、現團十郎丈の襲名の頃だったと思うが、

「十寸見会を今のようにした功罪の責任はすべて私にあります」

 と洩らされたことがあった。

 功の方は歌舞伎十八番の助六に不可欠の河東節連中を確保出来たことで、その初めは前出の昭和三十五年十一月の新橋演舞場での古曲鑑賞会の時である。

 先生は当時の邦楽愛好家の著名人に声をかけ、河東節「助六由縁江戸桜」の大合唱を企画して、唄五十六人(男性)、三味線三十三人(女性)が昼夜二部にわたって出演した。

 出演者に、山田抄太郎、伊東深水、舟橋聖一、三宅藤九郎、池田弥三郎、遠藤為春、安藤鶴夫、岸井良衛などの諸氏の名がみえる。

 この三十五年の「助六」の大合唱は、どうも、この二年後の当時「海老様」と呼ばれていた海老蔵丈の十一代目團十郎襲名を見据えた布石だったのではないかと思われるのだが、この時から、助六名取りの数が急激に増加することになるのである。

 当時の古曲鑑賞会のプログラムの終わりには古曲会各流派の名簿が載っているので、私蔵の昭和三十四年(大合唱の一年前)と昭和三十八年(團十郎襲名直後)の十寸見会の名簿から本名取りと助六名取りの数を拾うと、

 一、三十四年 本名取り  七十一名
        助六名取り 八十五名

 二、三十八年 本名取り  五十七名
        助六名取り 百八十八名

 助六名取りが倍以上になっている。

 一般に広く河東節の門扉を開いたのは田中先生の功といえるが、そのマイナス面も無視出来なくなってきてる。

 助六名取りの増加はそれ自体悪いことではない。「助六」を習って河東節に興味を持ち、別な河東節の曲も覚えて本名取りになってくれればいいのだが、それはホンの一握りの人達で、大多数は芝居に出たいだけの助六名取りなのである。

 また、これも時代の流れなのか、邦楽のマナーも知らない初心者がどんどん後から入ってきて、昔からある河東節独特の風格というか雰囲気のようなものも次第に失われて行くようだ。

 それは曲も同様で、昭和三十五年に伝承されていた四十五曲の内、今では聴かれなくなった曲もある。
 これらは今まで河東節の強力な基盤だった花柳界にかげりが出て来て、戦前、新橋、赤坂、下谷、芳町など各花柳界に夫々あった河東連も今はなくなり、あまり頼れる存在でなくなって来ていることも無関係といえないようだ。

 こんな状態が続けば、何年か後には河東節は「助六」一曲になってしまうかもしれない。

 それでいいのか。そろそろ考える時期ではないかと思うのだが――

 一応、河東節の将来に警鐘を鳴らして筆を擱くことにする。

第118話 『歌舞伎座回顧(三)、楽屋話』

 昭和三十九年当時の楽屋を偲んでみるのも一興と思い、河東連中の裏話などもまじえて、思いつくままに書くことにする。

 昭和通りに面した楽屋口から中に入ると、まず右側に役者の出勤退出を示す着到盤が置いてある作者部屋がある。

 正面の廊下をまっすぐに行くと、突き当たりが團十郎丈の部屋で、そこで廊下は左右に分かれるのだが、まず廊下の右側から説明すると、作者部屋に続いて河東節連中の部屋があった。

 今程、一回の出演者の数が多くなかったので、そこで声出しもやった。

 廊下の右側はその二部屋だけだった。

 左側は三部屋あって、作者部屋の前は先代左團次丈の部屋、続いて長唄連中、その向こうが衣裳部屋になっていた。

 高島屋はジャイアンツ・ファンだったらしく、巨人軍の元監督川上哲治氏から贈られた暖簾が部屋の入口に掛かっていた。よく紺の背広の普段着のまま河東節の楽屋を覗いて知った顔を見かけると雑談をして行った。

 その左團次丈の何となく覚えている話。

 ――銀座資生堂前の信号が赤なのに、考えごとをしていてうっかり渡りかけたら、角の交番の巡査に、

 「おじいさん、おじいさん。まだ信号赤だよ」

 と注意されたが、自分はいつも「にいさん」といわれてはいたが、「じいさん」と呼ばれたことはなかったので、自分が注意されているとは気がつかず、「危ない」とひどく怒られた――

 さて、廊下は成田屋の部屋に突き当たって左右に分かれるが、右に行くと、その部屋の外側に沿って、すぐ又左折、そのまま行くと舞台下手に出る。その途中左側に下へ降りる階段があり、奈落に出られる。

 スッポンや花道から登場したり、或いは引っ込む役者が利用する所である。

 T字路になっている廊下を左に行くと、すぐ又、右折する。左側にトイレ・風呂場があった。

 昭和三十九年当時、歌舞伎座の楽屋には女性用トイレはなかった。

 考えてみれば、歌舞伎は元々男の世界だったわけだから、当たり前といえば当たり前の話だったのかもしれない。

 今では大道具のスタッフにも女性の姿を見かけるが、昭和三十九年頃は戦後の花柳界の全盛期でもあり、芸者衆の河東節出演者も多かったこともあって、トイレが共通だったことが記憶に残っている。

 トイレから先には行ったことがなかったので、その当時のそれから先のことは知らない。

 現團十郎丈の時代になって、先代勘三郎丈と歌右衛門丈の部屋を河東節連中の楽屋として使わせて頂いたことがあって、その時初めてその廊下の先に行った。

 その時にはもう女性用のトイレも完備していた。

 昭和三十九年十月の河東節連中のことに話を戻すが、男性の出番の時には稀音家三郎助師がいつも出演されて、唄を引っ張る中心的な役目をつとめられていた。

 当日出演の河東節連中は本番前に声出しをするが、その時刻になると、必ず篠原治師が付添いのご婦人二人を連れて現れて、最終チェックをされた。

 篠原治師は当時の古曲会の理事長で、一中節の人間国宝、二代目都一広であり又、何よりも新橋花柳界の代表者として、我々には篠原治師というよりも菊村のおかみさんとして知られた方である。

 大正十二年の関東大震災後、新橋花柳界が新橋演舞場を自分達の力で建てたことは有名であるが、それは一にも二にも菊村さんの力あってのことといわれている。

 菊村さんはその頃、既にかなりの高齢でいらしたが、ちゃんと坐って一段聴き終わった後で、

 「そんなことじゃ、團十郎は踊れませんよ」

 「もっと大きな声を出して」

 とか、鋭い声でダメを出した。褒め言葉は勿論、「結構です」というようなOKが素直に出たことは一度もなかった。

 菊村さんが帰った後で、誰かが、

 「全く、うるさい婆さんだ」

 といったのが聞こえて、一同思わず失笑したことがあった。

 「もっと大きな声で」とはいつもいわれていたような気がする。

 十寸見会の裏方をとり仕切っておられた遠藤妻吉氏は、ご自分は河東連として出演されることはなかったが、氏の実弟で赤坂山の茶屋のご主人、遠藤政治郎氏は十寸見会のベテランで、河東節連中の有力な一員だった。

 日本で初めてのオリンピックということもあり、遠藤妻吉氏はそのオリンピックの観戦に行くため、どうしても歌舞伎座に来られないので、その留守中、遠藤氏の代行を私にやってくれ、と頼まれたことがあった。

 オリンピックのどんな種目を見に行かれたのかは、聞いたが失念した。

 遠藤氏の仕事というのは、毎日決まっていることが支障なく行なわれているかをチェックすることが主で、何か特別なことがない限り自分が動いて処理することもないのだが、その日はとても緊張したのを覚えている。

 その時の助六の前の出し物は先代勘三郎の鏡獅子だった。

 その時分の歌舞伎座はまだ鷹揚で、声出しの後、出番まで時間があると奈落を通って表へ行き、二階後ろの空席などに坐って舞台を観ていても咎められることもあまりなかった。

 空席がないので立って見ていると、自分の席が見当たらない客とみえたのか、案内嬢から「切符を見せて下さい」といわれたので、「河東節の者です」というと、親切に補助椅子を持って来てくれたこともあった。

 声出しの後、河東節連中は出番まで自由で、茶を呑む者、腹ごしらえをする者、様々だが、私はよく表に回って勘三郎丈の鏡獅子を観た。

 胡蝶は、勘九郎と梅枝だった。

 勘九郎(現勘三郎)はまだ小学生だった。

 その月の歌舞伎座の新聞評は、勘九郎の踊りは天才的とベタ褒めだった。

 翌、十一月の歌舞伎座の番組は、助六を除いて昼夜入れ替えとなり、鏡獅子は昼の部の公演となった。

 小学生だった勘九郎と梅枝は学校があるので出られなくなり、胡蝶役は若い役者に代わった。

 その十一月の新聞評に曰く、

 「蝶が蛾に変わった」

 そのオリンピックの年の歌舞伎座公演を機に私は河東節の稽古にも身を入れるようになった。

 日本経済が最も元気な時代で、花柳界も戦後の最盛期を誇っていた。

 古曲会も盛んで、勉強会が毎月、銀座のガスホールで催されていた。

 いつもは女性の会だったが、十二月だけは致風会といって男性の勉強会だった。

 その会で、伊東深水、遠藤為春、田中青滋など諸先生の河東節を聴くことが出来た。

 オリンピックの翌年、海老様といわれた十一代目團十郎が急逝した。

 昭和四十二年、河東節創派二百五十年を記念して、数々のイベントが行なわれた。

 そんな昭和三十九年から四十四年までが、私が一番活躍した期間だった。

 致風会の常連で河東節、荻江節の両方で出ていたし、東横ホールの名韻会というのにも河東節で出演したこともあった。

 前にも書いたように、昭和四十四年五月に私は大会社に転職し、仙台に転勤になったりして、その後十一、二年の間、古曲とは無縁の生活を送ることになったのである。

第117話 『歌舞伎座回顧(二)、河東節連中』

 昭和三十九年十月の歌舞伎座の「助六由縁江戸桜」は、先代(十一代目)團十郎の最後の助六だったが、この私にとっては最初の助六だった。

 当時の河東節十寸見会のこと、歌舞伎座の楽屋内のことなど、思い出しながら書いて行くことにする。

 その頃、十寸見会の理事長は篠原治(菊村)さんだったが、実際には田中青滋先生が代行して十寸見会の代表的役割をつとめておられた。

 会内部の運営面は遠藤妻吉氏がすべてに采配をふておられ、河東節の技芸の方は、唄は三世山彦紫存師、三味線は六世山彦河良師が夫々指導に当たられていた。

 稽古場は今と同様、叶屋さんの二階だった。

 劇場では晦日まで興業を打つことは殆どなく、大体その少し前に楽日があって、それから翌月々初の初日までの間を、場内の改装等の整備や翌月の出し物の稽古などの準備に当てるのだが、特にそれらに支障がない時はお浚い会に貸し出したりする。

 新狂言の準備として、まず「ツケタテ」、「総稽古」、「舞台稽古」、それから「初日」ということになる。

 先代團十郎の助六の時に、それを一通りすべて経験させてもらったことは、何よりも忘れ難い思い出となっている。
 「総稽古」と「舞台稽古」については、その後も何度か、やらして貰ったことがあるが、「ツケタテ」はその時一度経験しただけである。

 私を引っぱり廻してくれたのは、十寸見会の理事でベテランの飯田賢太郎氏で、名前が私と同じ賢太郎ということもあって親近感をもって下さったのか、十寸見会や邦楽界の様々な仕来たりや作法などについて何も知らない私に一から教えてくれたのも飯田さんで、今でも深く感謝している。

 さて、その「ツケタテ」だが、助六の幕が開いて口上があり、

「河東節御連中様、どうぞ、お始め下さりましょう」

 で、前弾きが始まり、舞台上手と花道から火の用心の金棒引きが出てくるのだが、その切っ掛けや唄との兼ね合い。金棒を激しく突くのは唄のどこで、といったような打ち合わせで、河東節は二挺三枚、金棒引きの場面だけで終わった。

 何しろ助六は古い芝居なので残っている江戸時代の脚本を見ると、一日がかりで芝居見物を楽しんだ時代と今では時代が違うので、大筋とあまり関係のない部分はカット、アレンジを重ねて、その時代、時代に合わせて芝居のテンポを早めて来たように思われる。

 十五代目羽左衛門が大正四年四月の歌舞伎座で演じた助六の脚本(『助六由縁江戸桜の型』遠藤為春・木村錦花合著)があるが、これと現行の助六を較べてみると、更にカット、アレンジされている。

 特に冒頭の河東節が始まる場面だが、もしかして、これまで十五代目羽左衛門の脚本に依っていたものを、その時、今のように直したのかもしれない。

 それに関連した「ツケタテ」ではなかったか、と思っている。

 「総稽古」は、舞台で演じられる芝居を一通り通して行うもので、「舞台稽古」と違うのは、舞台を使わないことと舞台衣装を付けないことである。

 「総稽古」の場所は歌舞伎座の場合、正面玄関を入って廊下を左に行った、劇場が公演中、売店が並んでいる一帯で、舞台に向かって左側、花道前の桟敷席の後ろ側になる。

 舞台衣装は着ないので、役者衆は普段着の着物姿である。

 唄方、三味線方も殆ど着物姿だが、私服ということなので、洋服でも別に構わないようだ。

 その「総稽古」の時、私が河東節の師匠である渡辺やな師と一緒にいるところに、いかにも役者らしいオーラを放っている姿のいい男性が、

「やなちゃん、しばらく」

 と、にこにこしながら近付いてきていった。

 先代の片岡仁左衛門だった。

 松島屋はその時、白酒売役だった。

 河東節連中は「ツケタテ」と同様、二挺三枚位だったと記憶している。

 三味線は河良先生ではなく、山彦貞子師だった。

 さて、「舞台稽古」だが、河東節連中は今の半数位で、唄方は十名足らずだったように覚えている。

 その証據といっては何だが、楽屋が後述のように狭かった。

 その「舞台稽古」での思い出になるが、まず芝居の上演中の河東節連中の舞台裏を時間順に説明して行くと、幕開け、口上の後、河東節の「鐘は上野か浅草にその名を伝う花川戸」で金棒引きが引っ込み、並び傾城の出になる。

 御簾内が暗くなって、河東節連中は演奏を中断し、揚巻が花道から正面舞台まで出てきて床几に掛け、助六の母親からの使いの出のところまで、御簾内から見台を前にして坐ったまま眺めている。

 鐘の鳴るのが合図で御簾内が又、明かるくなって「遠近人(おちこちびと)の呼子鳥」と河東節が始まり、白玉と意休が花道から登場する。

 河東節の方は「よしやかわせし」と唄ったあと、再び中断して一旦御簾内を出る。

 舞台上での意休と揚巻のやりとりの間、河東節連中は舞台裏で白湯で喉を潤したりして一息入れている。

 意休から、失せろ、と言われて花道に掛かる揚巻を白玉が呼び止めるあたりで、河東節連中は再び御簾内に入って、スタンバイする。

 揚巻と白玉が舞台上手から去ると、尺八の音が響いてくる。並び傾城の一人が、「あれ、虚無僧が来やんした」というと、別の一人が、

「ありゃ虚無僧じゃござんせぬ、地回りの衆じゃわいな」

 一同、「どれ、どれ、どれ」

 といったところで、鐘の音が切っ掛けで河東節になり、助六の出になるのである。

 花道の助六の踊りは、人気役者が様々にいい恰好をしてみせる古い芝居の形が今に残っている出端(では)というもので、その出端が終わって助六が本舞台に出てきたところで河東節の出番は終了。

 以上が舞台裏の河東節連中の一部始終である。

 話を昭和三十九年十月の「助六由縁江戸桜」の舞台稽古に戻すが、一度御簾内から出て再び御簾内に戻ってからの唄い出しで、私はつい舞台に見惚れてしまい、唄い出さなかったので、隣に坐っていた千匹屋の齋藤社長に注意された。

 私にとっては初めての助六だったこともあると思うが、今は御簾内にカーテンが掛かっていて、河東節が始まる寸前に開くので、舞台に気をとられて唄い出しをうっかりする心配はなくなったようだ。昔はそんなカーテンなど、なかったような気もする。

 それから、前にも書いたが、男性の出演者は現在と違って、紋付羽織袴着用だった。

 そのオリンピックの助六の時には、お揃いの江戸紫の羽織の紐を誂えたものだ。

 羽織をいつから着ないようになったのかはしらない。

 私は昭和四十四年に転職して、暫くの間、河東節とは無縁の生活を送った。

 再び河東節をやるようになったのは昭和五十年代の後半で、その間に河東節連中はいつの間にか羽織を着なくなってしまったようだ。

第116話 『歌舞伎座回顧(一)、戦前の思い出』

 私が初めて歌舞伎座に行った時のことは、残念ながら全く覚えていないが、それが戦前のまだ、私が小学校に上がる前で、連れて行ってくれたのが祖父母のどちらかであったことは確かである。(多分、祖父だと思う)

 私と私のすぐ下の弟は年子で、私が初孫ということもあったのかもしれないが、小学校に入るまでの幼児期の大半を私は向島にあった祖父母の家で過ごした。

 歌舞伎座にはよく連れて行って貰ったようだ。

 それは紙芝居の懸賞の記憶から分かる。

 向島の祖父母の家の近くにやって来る紙芝居屋は一通り出し物をやって見せた後に懸賞を出した。

 懸賞は小学校の低学年向けと高学年向けの二種類あって、低学年にはお伽噺の一場面、高学年には一般によく知られている歴史的な事件などを描いた絵で、それを子供達に見せて、絵に描かれた人物や事件を当てさせるのである。

 正解を云い当てた子は只で飴が貰える。

 私はまだ小学校にも行っていないのに、よく上級生の問題までも当てて賞品の飴を貰った。

 一緒に観ていた小学校高学年の女の子が隣の子に、

「あの子、ちっちゃいくせに、よく上級生の問題当てるのよ」

 と話しているのが聞こえて、ちょっと羞ずかしかった記憶がある。

 私が当てたのは、天一坊とか、佐倉宗吾など、芝居から得た知識で、そんなことから、よく歌舞伎を観に連れて行って貰っていたことがわかる。

 私が小学校に入学したのは昭和十二年四月だったから、これら紙芝居屋の懸賞のことは昭和十年前後のことと思われる。

 祖父母にはいろいろな所に連れて行って貰ったようだが、祖母とは不思議と温泉にいった記憶しか思い浮かばない。

 一方、祖父には様々な所に連れて行って貰った思い出がある。

 歌舞伎以外に必ず一緒に行くのは相撲で、相撲は毎場所一回は両国国技館に出かけて行った。

 どうも後から聞いた話では、祖父は相撲の何とかいう親方に金を貸していたということだ。

 招魂社(靖国神社)にはよく連れて行って貰い、帰りに境内でやっているサーカスなどを観せて貰った記憶がある。

 天竜という力士が相撲協会に反旗を翻して始めた大阪相撲というのを観たのも靖国神社の境内だった。

 映画は「忠臣蔵」と「ターザン」しか、観せて貰えなかった。

 祖母は神経痛でよく温泉場に行き、その時はいつも私が一緒だった。

 祖母の温泉行きは療養が目的だったので、一ヶ所に長逗留で子供の私には変化がなくてつまらなかったが、祖父が一緒の時は、名所巡りや馬や船などにも乗せてくれて楽しかった。

 祖母抜きで祖父と二人切りで旅行したことも二、三度あった。

 多分、用事があっての旅行だったと思うのだが、帰りに名所旧跡を見て廻り、美味しい料理を食べさせてくれるなど、子供の私に気を遣ってくれていたのが、今になってよくわかる。

 小学校に入学することになって、私は本所の父母の許に帰り、実家から学校に通うことになった。

 父は一人っ子で甘やかされて育ったせいか道楽者だった。

 母と結婚後もダンス・ホールやカフェに入りびたり、夏はヨットで遊ぶといった、所謂、モダン・ボーイだった。

 父は相撲は祖父譲りで嫌いではなかったが、歌舞伎の方はさっぱりで、その後、戦争が激しくなったこともあって、私は歌舞伎座とはすっかり縁が遠くなってしまった。

 再び歌舞伎を観るようになったのは、戦後の昭和二十二、三年頃からである。

 歌舞伎座は戦災で焼け、歌舞伎は東京劇場での公演になった。

 その頃、日本橋の三越劇場で、毎月「三越名人会」というのがあって、先年亡くなった六代目中村歌右衛門がまだ芝翫といっていた、その芝翫の舞踊「四季の山姥」を観て感激したのもその時分だった。

 河東節、荻江節を初めて聴いたのも三越名人会である。

 どちらが先だったかは忘れたが、月代わりで河東節の「助六由縁江戸桜」と荻江節の「深川八景」が続いて出た。

 河東節は岡田米子(後の二代目山彦文子)師、荻江節は竹村寿々(後の初代荻江寿友)師だった。

 その後、間もなく私は竹村さんの許に入門して、荻江節を習うことになった。

 河東節をやるようになった経緯については、昨年出版した『江戸吹き寄せ』の「古典鑑賞会」(六)、(七)、(八)の章に委しく書いて置いたので省畧するが、昭和三十八年の秋、十寸見会の後援で「山彦やな子の会」が美術倶楽部で大々的に催された時、私の河東節の師の渡辺やな(山彦やな子、荻江やな)師から、「今度は河東節の会なので、河東節をやって貰いたい」といわれて、「きぬた」を教えて頂いて当日、美術倶楽部で唄ったのが、私の河東節の初舞台だった。

 それまで、河東節といえば「助六由縁江戸桜」一曲だけ、「助六」だけはやっておきなさい、とやな師にいわれて習った外は、専ら荻江の稽古ばかりだった。

 初めての河東節はただ夢中で、あっという間に終わってしまった。

 出番がすんで楽屋の座敷で着替えていると、新橋の芸者衆と思われる中年の女性が入ってきて、私に、

「とても結構でしたよ」といって、「相当なお姐さんも聴いていらして、褒めていらしたわよ」

 と声をかけてくれた。

 それを聞いて、自分では、あまりよく出来たという意識はなかったのだが、何となく、とにかく無事にすんだらしい、とホッとしたのを覚えている。

 その「相当なお姐さん」というのが誰か分からなかったが、その後の様々な事情から、新橋の五郎丸(永井静子)さんではなかったかと今では思っている。

 その時の河東節が縁となって、翌昭和三十九年十月の歌舞伎座に、十寸見連の一員として出演することになった。

 昭和三十九年は東京オリンピックの年である。

 歌舞伎座ではオリンピックの開催期間に合わせて、十月、十一月のプログラムを組んだようだ。

 今、私の手許にその十月のプログラムがある。

   昼の部
 一、寺子屋
 二、京鹿子娘道成寺
 三、野崎村

   夜の部
 一、鳴神
 二、鏡獅子
 三、助六由縁江戸桜

 出演俳優は、左団次(三代目)、團十郎(十一代目)、羽左衛門(十七代目)、尾上九朗右衛門、松緑(二代目)、梅幸(七代目)、仁左衛門(十三代目)、宗十郎(八代目)、延若(三代目)、歌右衛門(六代目)、勘三郎(十七代目)、雀右衛門(四代目)、扇雀(二代目)、福助(七代目)、三津五郎(八代目)。

 ここに出ている人物の内、雀右衛門、扇雀、福助を除いて今は、全て鬼籍の人となっているが、オリンピックに合わせて歌舞伎俳優総出演の感がある。

 夜の部の最終の出し物が助六であるが、この助六が海老様といわれた人気役者、先代(十一代目)市川團十郎の最後の助六となった。

 私が観客としてではなく、出演者の一人として舞台裏に入ったのは、その時が最初だった。