第97話 『煙草の話(三)、江戸の煙草の本』

 先日、書店で江戸の煙草について書かれた本を見つけた。

 煙草と塩の博物館から出ている本で、ペラペラとめくって見ると、本居宣長の『おもひくさ』、大槻磐水の『えん草』、清中亭叔親の『目さまし草』などについても書いてあったが、橘曙覧は出ていなかったようだ。

 大槻磐水は医者で、名を茂賀(しげたか)、磐水と号し、呼名を玄沢といった。

 磐水は『蘭学事始』で知られている杉田玄白と前野良沢について蘭学を学び、その後長崎に留学するなど更に研鑽を重ね、初めてオランダ語の読み方や解釈の仕方を説いたオランダ語文典とも云うべき『蘭学楷梯』を書いてその後の蘭学の普及に大いに貢献した人物である。

 磐水の俗稱の玄沢は二人の蘭学の師、杉田玄白と前野良沢の名を一字ずつ貰って付けたという。

 磐水は寛政六年閏十一月十一日、その日が太陽暦の一七九四年の一月一日に当たることから、友人の蘭学者たちを江戸京橋水谷町の自宅、芝蘭堂に招いて陽暦の新年を祝った。

 その時、磐水三十八才である。

 その後、毎年、新元会と稱して陽暦で新年を祝うことを続けたが、新元会は又、オランダ正月とも呼ばれた。

 森銑三先生に『オランダ正月』という名著がある。

 同書は子供向けに書かれた江戸の医者や科学者などの伝記で、その中に磐水も出ていてオランダ正月のことが書いてあり、それが本の題名になっている。

『オランダ正月』の見返しの所に市川岳山という杉田玄白の門人が書いた、寛政六年の第一回新元会(オランダ正月)の絵が載っている。

 三脚のチャブ台の前に二十八人の出席者が並んで坐っている。それとは別に、右上隅に洋服を着て帽子のような物をかぶった人物がパイプを持って一人だけ椅子にかけている。

 絵が小さいので、どれが誰なのか、よくわからない。

 椅子に坐っている洋服の人物は当日出席したといわれている大黒屋光太夫かもしれないし、その前に坐っているのが大槻磐水らしくみえるが、これだけでははっきりしたことはいえない。

 さて、磐水が書いた煙草の本『えん草』に話を戻すが、「えん草」とは煙草のことで、「えん」(草冠に焉)は大辞典でみると、「臭い草」とあり、これ一字でも煙草を表している。

 磐水の『えん草』は未見だが、漢文で書かれており、見たところでとても手に負えそうにない。

 その磐水の『えん草』を磐水の門人の清中亭叔親が、抜粋簡略化して普通のカナ交じり文にしたのが、『目さまし草』という本である。目さまし草も煙草の異稱である。

 『えん草』について『目さまし草』の中で、叔親は次のようにいっている。

「我磐水大人のえん録を編集し給ふは、此草の濫觴と主治功害を、詳に皇国の人、異国の人にも示し給はんとの素意厚情なり。然るに編中に、雅賞詩文煙具の諸図等に至るまでを雑集し給へる故に、全編を熟読ざるものは、ただ其諸図ある巻を見て、これ偏に好事者流の雑著の如く見ながす輩もありとか、然れどももとさるたぐひにはあらぬなり。

抑々我大人其本志の大いなる趣意といふものは、かかる太平に生れあへる人々、空しく其天年を損する事あらんを患ひ、全部三巻の通編を総括、其常に思ふ所を以て、巻尾に於て懇に説き給へるは、附考又余考といふものにあり。

然れどもこれ又から文字に綴りて、通俗のものにあらざれば、これを読み暁解もの少きか(以下略)」

 『目さまし草』の序文によると、清中亭叔親の家は

「五代の祖より、此大江戸に住て、国々のたばこをあつめ、世のわたらひとなせしを云々」

とあって、代々煙草商であったことがわかる。

 序文には更に、

「また(煙草)其功と害との有事は、つばらにしらざりしを、磐水大人のえむろく(『えん草』)といふ書には、其故よしをいとねもごろに記されたり。

(中略)さればこれをよまん人々、はじめて此草の本性をわきまへ、又此葉、生なるもほしつるも、べちにくさぐさの功能有事を知りなば、吸ひかをらす楽のみかは。世の大なる益ならましとてなり。

まいておのが家、代々、あきなひつる草にしあれば、いささか其徳にむくいんとて、かくはものすることとはなりぬ」

 その後に、文化十二年三月の日付がある。

 跋は磐水の息の磐里が漢文で書いているが、叔親について、「えんをひさぐを以て産を為す」と云い、『目さまし草』の叔親の草稿は不備で不完全なものだったが、本人がどうしても出したいというので、諸同志と謀って校正し、且つ、父の磐水の検閲を受けた、と書いている。

 本居宣長の『おもひくさ』は文学的な書だったが、この『目さまし草』は煙草の歴史や風俗の他、喫煙の功罪についても触れていて、煙草の実用書とでも云うべき本である。

 現在は、人体に対して煙草の功は全く無く、ただ害のみということになっているが、この時代はまだ種々の効用があると信じられていたようだ。

 ただ、陰虚、吐血、肺燥、労の人は吸ってはいけないとか、吸い過ぎには注意して家にいる時は長い管の煙管を用いよ、煙草の毒を解すには味噌が一番、などと書いてある。

 現代の医学の常識から見て随分可笑しな記述もあると思うが、総じて科学的な本は内容がすぐ陳腐化してしまう宿命にある。それだけ科学の進歩が速いということである。

 今、巻煙草を買うと、箱に「喫煙はあなたにとって肺気腫を悪化させる危険性を高めます」などと書いてある。

 煙草を吸わない者でも喫煙者の出す煙草の煙を吸う受動的喫煙で健康を損なうということで、公共の場所や建物ばかりでなく、一般のレストランやカフェまで禁煙の場所がどんどん増えている。

 その内、喫煙者は家でしか煙草が吸えなくなるかもしれない。

 一昨年亡くなった作家の吉村昭さんは、病状が進行して煙草を止めざるを得なくなるまで、大変なヘビースモーカーだった。

 その吉村さんから聞いた話。

 吉村さんには『日本医家伝』や『夜明けの雷鳴』など医学に関する作品も多く、各方面の医師の方々とも幅広いお付きあいがあったようだ。

 吉村さんがある著名なガンの権威のドクターと会った時のことである。(ドクターの名を吉村さんから聞いたが、失念した)

 その先生が煙草をプカプカ吸っているので、吉村さんは驚いて、

「先生、煙草を吸うとガンになるんじゃありませんか」

「そうです。喫煙者がガンになる確率は高いです」とドクターはこともなげにいって、「しかし、喫煙者は認知症になる確率が低いんですよ。私は煙草のせいでガンになるかもしれませんが、認知症にはなりたくないんでね」

 この話を煙草が止められない人にすると、大抵わが意を得たように喜ぶ。

 煙草を吸う、もっともらしい理由が見つかったからだろう。
終わり

第96話 『煙草の話(二)、江戸煙草事情』

 先年アメリカ大統領が来日したときのコメントに、橘曙覧の和歌が引用されていて話題になった。

 日本人でも橘曙覧という歌人を知って人はそう多くないと思われるので、知らなかった人は驚いたろうし、知っていた人もどうして橘曙覧が出てくるのか不思議に思った。

 大統領が知っている訳はないので、多分コメントの陰の起草者はドナルド・キーン氏だろう、という専らの噂だった。

 橘曙覧(1812~1868)は幕末の歌人である。

 文化九年越前福井の旧家の砥商、正玄五郎右衛門の長男として生まれたが、早くから家業を弟に譲り、学問、歌道に精進した。天保十五年(1844)、本居宣長門下の田中大秀に入門、本居派の国学を学び尊皇思想を説いて次第にその名を知られるようになる。

 福井藩主松平慶永、その子茂照の信望厚く、曙覧を保護後援したので文名大いに上がった。

 曙覧は、まだ世に知られない若い頃、ずいぶん貧しい暮らしをしていたらしいが、それをあまり苦にしてはいなかったようだ。

 前稿で引用した、「たのしみは 心にうがぶ はかなごと」という和歌は橘曙覧の『独楽吟』の中の一首であるが、『独楽吟』に載っている五十二首の初句は、すべて「たのしみは」で始まって、最後は「×××とき」で終わっている。

 たのしみは あき米櫃に 米いでき
 今一月は よしといふとき
(門人がこっそり米を入れてくれたものか)

 たのしみは 銭なくなりて わびをるに
 人の来りて 銭くれし時

 たのしみは とぼしきままに 人集め
 酒飲み物を 食へといふ時

 たのしみは 客人(まろうど)えたる
 折しもあれ 瓢(ひさご)に酒の
 ありあへる時

 たのしみは ほしかりし物 銭ぶくろ
 うちかたぶけて かひえたるとき

 これらの和歌には貧しさを楽しんでいる風さえ感じられる。

 たのしみは いやなる人の 来りしが
 長くもをらで かへりけるとき

 などという思わず笑ってしまうような歌もある。

 最初に引用した、「たのしみは 心にうかぶ はかなごと」の歌からもわかるように曙覧は煙草を吸ったらしい。

 彼の『松籟艸』という別な歌集に、「煙草買ふ銭無かりし時」として、

 けぶり草 それだに煙 立かねて
 なぐさめわぶる 窓のつれづれ

 という一首が出ているところをみると、煙草好きだったと思われる。

 曙覧の師の田中大秀は本居宣長の高弟だったこともあって、曙覧は宣長を尊敬していて、『独楽吟』にも、

 たのしみは 鈴屋大人(すずのやうし)の
 後に生れ その御諭(みさとし)を
 うくる思ふ時

 という一首が載っている。鈴屋大人とは云うまでもなく本居宣長のことである。宣長は鈴の屋と号した。

 本居宣長も煙草を好んで吸ったと思われ、『おもひくさ』という煙草に関する本を書いている。「おもひくさ」とは煙草の異稱である。

 煙草の異稱や符丁は数多くあるが、岡本昆石の『合載袋』の中の「寄席芸人の符調(丁)」に、煙草を孫右衛門、又雲といふ、とある。同書の「香具師の符調」には、煙草をもく、と出ている。

 隠語や符丁では、現在でもそうだが、よく言葉をひっくり返して使う。

 「うまい」を「まいう」、「ハワイをワイハ」などと云うのと同じである。

 寄席芸人の「雲」というのをひっくり返せば、香具師の「もく」になる。

 戦後、物資のない頃、煙草の吸い殻を拾っている者を「モク拾い」といった。

 徳川夢声が書いた煙草の随筆に、大正九年に京都府警察部が出版した『隠語辞典』の「煙草」の項が出ている。

「いんた、うま、ゑんた、ゑんそ、きさぶろう、きはちさん、もく、くさ、げんぴ、ざみ、はくさ、ばたこ、ぱっぱ、まや、もや、わんだ」

 と夥しい数である。

 さて、本居宣長の『おもひくさ』だが、「日本随筆大成」の解説によると、この書は一名を「乎波那賀毛登」(をはながもと)と云うとある。「尾花が本」とする書もある。

「枕草子、徒然草などに倣い、煙草についての感想を流暢な雅文を以て記述したもの」

 と出ている。

 まことに優雅で美しい文章である。最後のところだけ左に挙げる。

「やうなき物なりと思ひすてなむもことわりかな。つくづくとたどりつつ思へば、げにはかなくあだなる物にこそとも思ひかへさる。もろこしにても、とりどりにことわりてさだめかねたるとかや。いむことただしきほうしなんどの、ちかくさしよせだにせぬもいとたふとし。かくまでは思ひとけども、なほおきがたき物にや。あしたにおきたるにも、まして物くひたるにも、ぬるにも、大かたはなるる折こそなけれ。かうつねにけぢかくしたしき物は、なにかはある。さるをいみじき願たて、ものいみなんどして、七日もしは十日なんどたちゐたらんほどにぞ、つねはさしも思はぬ此君の、一日もなくてはえあらぬことをばしるらんかし」

 この中の「朝起きてから、食事の時も、寝る時まで、殆ど煙草と一緒」とか、「願かけをして、その間煙草を断ったものの七日とか十日にならぬ内にどうにも我慢が出来なくなり、普段はそれ程に思いもしなかったが、一日も無くてはならぬものと思い知った」など、喫煙者の心理を云い得て妙で、煙草呑みなら誰しも「そう、そう」と頷くところだろう。

 これを書いた本居宣長は、かなり煙草好きだったに違いない。

 江戸時代の煙草に関する本としては、他に大槻盤水の「えん草」(「えん」は草冠に焉という字)、清中亭叔親の「めざまし草」などがあるが、
 それについては、次回に―――――

第95話 『煙草の話(一)、パイプ』

 喫煙は昔、文化だった。

 明治時代の高官や富豪の建てた洋館には、立派な喫煙室のあるものが多い。

又、氷川丸のような外国航路の客船には喫煙室があって、船客は長い航海の間のあり余る時間の多くを其処の紫煙の中で談笑して過ごした。

 当時、こうした大型客船の乗客は高級官僚や豪商、又その家族など、様々な人がいたと思われるが、いずれも上流階級の裕福な人達である。

 さて、喫煙室ではどんな話題が彼らの口にのぼったのだろう。

 嫌煙運動が激しさを増す此の頃だが、その理由がわからなくもない。

 歩き煙草のポイ捨て。強風の日でも火の粉を撒き散らしながら、周りの人々には一斉お構いなしである。バス停に出ている禁煙の看板の前で、堂々とプカプカやっている。

 こうした喫煙者のモラルの欠如は、同じ喫煙者の一人である私でさえ、思わず眉をひそめることが多い。

 空港や駅に設けられている狭い喫煙室の中で、スモーカー達が肩を寄せ合って煙草を吸っている姿を見ると、何ともみじめな感じがする。

 どうも喫煙者は自分で自分の首を絞めているようだ。

 煙草はそんな狭い場所で吸って欲しくないし又、吸っても美味しくない。

 江戸時代後期の歌人、橘曙覧の『独楽吟』に、

たのしみは 心にうかぶ はかなごと
 思ひつづけて 煙草すふとき

 とあるように、煙草はゆったりとした気分で吸うのが一番で、狭苦しい場所では到底そんな気持ちになれない。

 今のように小さな箱のような喫煙室で煙草を吸っているスモーカーは煙草を楽しんで吸っているのではなく、薬の切れた麻薬常習者と同じで、吸わずにはいられないので吸っているのである。

 その内、煙草は麻薬同様の扱いになってしまうかもしれない。

 英国の首相だったチャーチルは確か『大戦回顧録』の中に「煙草の功罪は一概に論じられない」と書いていたと思う。

 重要な国際会議で会談が決裂しそうになったとき、休憩をとって葉巻(チャーチルはいつも葉巻を吸っていた)を燻らしながら、「もう一度話し合ってみよう」と思い直して会議の席につき、ねばり強く折衝した結果、交渉がうまく行ったことが何度もあった、というのである。

 煙草を吸わない人が、吸っている人の煙を吸う受動的喫煙で健康を損うといって、喫煙者は毛嫌いされているが、これは煙草の煙害をいささか過大評価し過ぎていると思う。

 煙草の煙は見えるから問題になっているが、「見ぬもの潔し」で見えにくい排気ガスやスモッグは煙草ほど騒がれていないし、電波に至っては全く問題にもされない。

 受動的喫煙が嫌なら、喫煙者を今のように隔離すればよいが、排気ガスやスモッグはそうはいかない。汚染された空気でも我々は空気がなければ生きていられない。電波にしても通信・ラジオ・テレビ・携帯電話等々、我々の周りは電波が溢れている。その影響が全く無いといえるのだろうか。もしかしたら、最近の凶悪犯罪に繋がる切れ易い現代人の性格と電波漬けの環境は無関係ではなく、いつかその因果関係が証明される時がくるかもしれないのだ。

 こんなことを今更いったところで、盗人の言い訳としか聞こえないだろう。

 私も煙草を吸うが、外では専ら巻煙草を、家ではパイプを愛用している。

 昔はパイプ一辺倒だったが、数年前、煙草の吸える喫茶店でパイプを吸っていたら、店員から「普通の煙草にして下さい」といわれた。多分、パイプ煙草の香りがきついので、そう注意されたのだと思うが、それ以来、外出の時には巻煙草を持って行くことにしている。

 パイプに凝っていた頃は時々海外に行く機会もあったので、コレクションを始めて一時は五十本近く持っていた。

 パイプの図鑑で見たホルベックという作者のパイプが欲しくなって捜したが、どうしても見つからなかった。ちょうどその頃、コペンハーゲンに行くことになり、ぜひダンという煙草店を訪れたいと思った。ホルベックはダンの専属のパイプ作者だったのである。

 ダンの店はストロイエの裏通りにあった。

 古風な佇まいの店の中へ入って行くと、強度の眼鏡をかけた恰幅のいい店の主人らしい人物が応対に出て来た。

 私が「ホルベックのパイプはあるか」と訊くと、奥から二本のパイプを出して来た。

 その一本が木目と云い、形と云い、何とも素晴らしかったので、値段を訊くと、何クローネだったか忘れたが、当時の日本円にして十二万五千円位の金額を口にした。

 ある程度の金額は覚悟していたが、予想を超える金額にちょっと躊躇した。しかし、いつ又、デンマークへ来られるかもわからないので、思い切って買うことに決めた。

 主人らしき男はにこにこしながら分厚いサイン帳を出して来て、私に、そこにサインしろ、といった。

 そのホルベックのパイプは私のコレクションの中でも最も高価な一本で、今でも時々出して来て楽しんでいる。

 昔パイプを吸っていたら、「マドロス・パイプですか」といわれた。

 マドロスとは船乗りのことで、マドロス・パイプというパイプの種類がある訳ではないが、船員達にパイプの愛用者が多かったので、その名がついたと思われる。

 三十数年前になるが、大型客船に乗ってエーゲ海をクルーズしたことがある。

 池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』やジュディ・オングの「魅せられて」という歌などが流行る前である。

 若い女性の船客に大もての中年の一等船員は、いつもメアシャウムのパイプを口にくわえていた。

 パイプは海によく似合う。

 メアシャウムというのは海泡石のことで、長年パイプとして吸っていると、ボウル(火皿のある所)の部分が美しいアメ色に変色してくるので、王侯貴族などは新しいメアシャウムのパイプを手に入れると、早くアメ色にさせるため家来達に間断なく吸わせたという。

 知らない人のためにいっておくが、パイプの一番大事な所はボウルの部分で、ステムというエボナイトなどで作られる吸い口の所は交換できるので、部下が散々吸ったステムは捨ててしまえばいいのである。

 メアシャウムは比較的柔らかいので、よくボウルの部分に人の顔を彫刻したメアシャウムのパイプを見掛ける。

 メアシャウムのパイプで思い出すのは、戦後すぐの頃、『肉体の門』という小説を書いて評判になった田村泰次郎という作家のことである。

 その頃、まだ学生だった私はよく雑誌『文芸春秋』を買って読んでいたが、ある時、その中に田村が、ダミアと食事した時のことを書いた随筆が載っていた。

 ダミアは戦前から戦後にかけて活躍した女性シャンソン歌手で、彼女が唄った「ひとの気も知らないで」という歌は一世を風靡し、シャンソン・ファンでない者でも知っている程有名だった。

 戦後、来日して懐しい歌を聞かせてくれ、オールド・ファンを喜ばせてくれた。

 パリへ行った田村は、クリニャンクウルの蚤の市で美しいアメ色のメアシャウムのパイプを見つけて買った。

 ダミアと食事をした夜もそのパイプを持って行ったのだが、食事がすんで勘定を払う時、持っていたパイプを思わずとり落してしまった。

 メアシャウムは脆いので、床に落ちたパイプは衝撃で真ん中から二つに割れてしまった。

 それを見たダミアは、

「まるで人生みたいに脆いのね」

 といった。

 落ちたパイプは砕けないで、見事にパックリと真っ二つに割れていたので、マニキュアの液でくっつけてみたら、ぴったりと付いた。

 それで、今でもそのメアシャウムのパイプを使っている、と書いてあった。
ーーーーこの稿続くーーーー