第105話 『玉菊(三)、メリヤス「玉菊」』

 文政八年(1825)一月末、雪見に出かけた荻野梅塢が帰途、吉原中万字屋に登楼して泊まり、その翌日、となという芸者を呼んで中万字屋という場所柄、河東節の「傾城水調子」を所望して演奏して貰ったところ、その夜から卒厥という病に罹り生死の境を彷徨ったという話は『江戸落穂拾』の「扇面亭伝四郎」(二)に書いた。

 以下、それと重複するが、ざっと概要を述べる。

 梅塢は、それを玉菊の祟りと信じて慰霊のため光感寺を訪ね、玉菊の墓といわれる墓を修理したが、実は玉菊の墓は既に失われていて寺で玉菊の墓と称するものは、「光岸明秀信女 宝永元年(1704)五月十九日」とある全く別人の墓だった。

 しかし、梅塢はその墓を玉菊のものと信じて、その年の五月十九日を正忌として八百善で追善の供養を営んだが、このことは多くの好事家や考証家の非難の対称となったようだ。

 つまり、どう考えても玉菊の忌日が宝永元年では可笑しいというのである。

 しかし、光感寺にはそれらしい墓はなく、そこで彼等は、玉菊の墓が光感寺にないとすれば、中万字屋の墓所、永見寺にあるかもしれないと考えて、今度は永見寺を探索して、「菊顔玉露 享保十二年六月二十五日」という墓を見付け、これこそ玉菊の墓と信じた。戒名に玉菊の文字が入っている。過去帳も残っていて、玉菊の墓に違いないと思われた。

 享保の頃、中万字屋の楼主は山口氏だったが、その後、代替わりして家田氏になっていた。

 山口氏はその後代々名主をつとめたが、当時の主は山口心牛で吉原で隠然たる勢力をもつ顔役的人物だった。

 中万字屋の主人は家田節度で、節度は「菊顔玉露」とある墓を建て改め、文政九年六月二十五日に心牛が後見となって永見寺で玉菊の百回忌の法要を営んだ。

 また、玉菊が書いた「あさがほ 見しおりの露わすられぬ朝かほの花のさかりはすきやしぬらん 玉きく」という遺墨を酒井抱一が臨写して、それに朝顔の画を描き添えたものを掛物に作り、そのお披露目の会を文政九年八月十三日に石浜の八百善の別荘で催した。

 その時の様子を大西椿年が描いた画と、その画を模写したと思われる渡邊華山の画についても、先に挙げた「扇面亭伝四郎」(四)に細かく書いたので省略する。

 光感寺と永見寺の玉菊の墓騒動に関しては、岡野知十著の『玉菊とその三味線』に詳しく出ている。

 同書は、光感寺の荻野梅塢の碑文、山崎美成の「遊女玉菊伝」などを基にして書かれたものだが、現代文の上に所々解説入りで大変わかり易い。

 原資料は殆ど『燕石十種』の「新吉原略説」のところに収拾されている。

 次に、十方庵敬順の『遊歴雑記』の五編に「名妓玉菊が追善の碑めりやす」と題して玉菊のことが出ているので、それを挙げる。

『遊歴雑記』の著者、十方庵敬順は小日向にあった廓然寺(かくねんじ)の住職だったが、文化九年(1812)に隠居して自由な身となり、江戸や江戸の近郊の名所旧跡を足にまかせて尋ね歩いて書いたのが『遊歴雑記』である。

 敬順は酒が飲めなかったので、いつも簡便な茶道具を携帯して行って、行く先々で茶をたしなんでいる。

「名妓玉菊が――」は、「去者は日々に疎しとは理にぞ」という書き出しで始まっている。

「(中略)享保年間新よし原に全盛なりし傾城玉菊、今年文政九丙戌の六月百回忌の正当とて、声花(はなやか)なる追福ありし一件をしるし置もの也、此玉菊といふは、角町中万字や勘兵衛抱にして、そのはじめ元禄十六年癸未年浅くさ堀田原に生れ、父の病気によりて正徳二壬辰年十歳の時、中万字屋方へ売渡されしが、享保四己の戌年十七歳の突出しの初より、器量愛敬気転取廻し芸能まで残方なく、江戸一円評判よく和歌及書畫を能し、一廓挙て取はやし全盛一二をあらそひしが、勤の間九年にして惜むべし、享保十二丁の未年六月二十五日二十五歳勘兵衛家にて病死せり、是によりて浅草新堀端東側永見寺(曹洞)は玉菊が両親の苔提所なれば爰へ葬れり」

 このあと、玉菊燈籠の由来を述べ、続いて、

「(中略)かかれば今新よし原の燈籠の濫觴は玉菊が追善に起りて、享保十二年の未としより始まるもの也、しかるに享保十三年印板せる袖草紙に曰、享保十一年三月二十九日死し、光感寺に葬るとあれど、確と知がたしと書たるは誤にして、年月も相違し苔提所も齟齬せり、下にあらはす石碑を以て證とすべし」

 とあって、十方庵は袖草子(紙)を知っていたが、永見寺の墓に刻まれていた菊顔玉露という人物を玉菊と信じていて、袖草子の記述は間違いと極めつけている。

 玉菊の三回忌に出来た河東節の「傾城水調子」の文句に、「二十五絃の暁に碎けて消ゆる玉菊の」とあることから、玉菊は二十五歳で亡くなったといわれている。

 十方庵は、玉菊の行年については疑いを挟まなかったようで、菊顔玉露の石碑に刻まれた、享保十二年六月二十五日という忌日から逆算して、玉菊の生まれを元禄十六年としているのである。

 今は袖草子に載っている享保十一年三月二十九日が玉菊の本当の忌日となっている。
 従って、玉菊が生まれたのは元禄十五年ということになる。

 また、玉菊の生い立ちなどについて書かれている内容も、どこからきた噂話なのか、あるいは云い伝えなのか、どうもそのまま鵜呑みには出来そうにない。

 玉菊は享保四年十七歳で突出しとあるが、前回触れた享保五年の評判記『吉原丸鑑』にその名がないということは、その時にはまだ、玉菊は吉原に出ていないことになる。

 玉菊の生まれた地となっている堀田原とは、堀田ヶ原のことと思われる。
 今の浅草と蔵前の間辺りである。
 玉菊の和歌に酒井抱一が朝顔の画を描き添えた掛け軸の披露宴のことは書いたが、「朝顔」というメリヤスまで作られていたとは知らなかった。

 十方庵によれば、

「玉菊が描き置し香包ありて、朝顔の花を描きて最しほらかりしを、不図雨花庵(抱一)の大人に見せければ、元来好事といひ常々廓中に入ひたりて画に用ひられて取はやさるる身は人々のすすめも黙止(もだし)がたく、彼香包の色絵より朝顔といふめりやすの唄を作り、名ある画客会合し衆評の上節を付、伊能永鯉もたびたび引出されて、一節伐(ひとよぎり)を合せ、その外鼓弓筝笛尺八つづみ太鼓にいたるまで、名だたる人々一同に合奏して、夜な夜な遊君ひともとの座敷に錬磨しけるが、その後はなばなしく追善の式ありし沙汰を聞ず、伝え聞に、それぞれの配(くばり)もの四季着(しきせ)付届振舞以下弐百両余の失墜あればなり、依て玉菊が墓所を修理して苔提所に於て読経作善いと念頃なりしとかや」

 これによると、玉菊の遺墨には朝顔の画も描いてあったようだ。

 伊能永鯉は絵師で、伊能宗右衛門といった。十方庵とは親交が厚く、彼の名所探訪に暫々同行している。一節切りの名手だった。

 このメリヤスの件は『玉菊とその三味線』には出ていなかった。

 メリヤスは酒井抱一作で、節付は堀六郎右衛門(芳川)とあるが、堀六郎右衛門についてはどういう人物か、今のところ不明。

 十方庵の文は、永見寺の菊顔玉露の石碑の図が出ていて終わっているが、この稿の締め括りとして、抱一作のメリヤス「あさがほ」の文句を挙げて置く。

「見しをりのつゆわすられぬ、あさがほのはなの盛は、ももとせもかはらぬ今のかたみとて、むかしかたりにあらばこそ、見れば、うつつに水くきのあとは尽せぬ玉菊の、ひとよふた代ををなしなの、あいよりいでてなをあをきるりのせかいや、花のおもかげ」

 歌詞の中、「見れば」と「あいよりいでて」の前に「合」とあるから、そこに合の手が入っていたようだ。

第104話 『玉菊(二)、細見にみる玉菊』

 山東京伝の『近世奇跡考』に「中万字屋玉菊」でなく、「万字屋玉菊」とあったように、中万字屋は本来、万字屋という屋号で中万字屋というのは俗称なのである。

 というのは、当時、万字屋という妓楼が二軒あったので、角にあった万字屋を「角万字屋」、中程にある万字屋を「中万字屋」と呼んで区別していたのである。

 玉菊は、その中万字屋の抱えの遊女だった。

 玉菊がいつ遊女になったのかについては、吉原の案内書である『吉原細見』で調べるのが一番手っ取り早いが、何しろ古い時代のことであり、細見そのものが少ない上に、刊行年も明確でないものが多いので、はっきりしたことは分からないようだ。

『江戸あらかると』(花咲一男著)という本に「吉原細見の玉菊」という章があり、細見からみた玉菊の考証が出ているが、享保五年の評判記『吉原丸鑑』に出ている中万字屋勘兵衛抱えの散茶・梅茶六名と、総女郎(新造)十八名の名寄せに玉菊の名はないそうである。

 花咲氏は次のように述べている。

「玉菊は禿立ち(かむろだち)ではなく、突出(つきだし)の座敷持ちで出廓し、その時点も、享保五年の末や六年中であろう。彼女の出自と店に出るまでの経歴については、想像の糸口となる資料さえもないが、河東節の習得は遊女となる前からではないか、とも考えると、吉原五町を生活圏としていた者ではあるまいか」

 玉菊の名が出ている六冊の細見の内、刊行年がはっきりしているのは、享保十年の岩槻文庫版のもので、中万字屋勘兵衛抱えの遊女の筆頭は「れん山」で、二枚目が「花すみ」、玉菊は三枚目になっている。

 玉菊が酒のために体調を崩したのは、享保六年二十才の時である。

 パトロンの五代目奈良茂の金に糸目をつけない治療のお陰で快癒し、河東節と半太朗節を交互に聞きながら、世間の目を驚かせるような贅を尽した灸治療をしてみせたのは、享保七、八年頃で、その頃が玉菊の全盛期だったと思われる。

 享保十年にパトロンの奈良茂が死ぬ。

 玉菊の病いの再発したのが、いつなのか、書いていないので分からないが、玉菊は享保十一年三月二十九日に亡くなっているので、多分、享保九、十年頃だったと思われ、前にも書いたように、前回と同称な手厚い手当が受けられたか、どうか疑問だ。

 何しろ、金主の奈良茂がいなくなっているのである。

 病気の進行でやつれもしただろうから、れん山、花すみの二人に抜かれて三枚目に落ちてしまったのも当然の成り行きだったのかもしれない。

『江戸節根元由来記』には、玉菊について、

「きりょう十人に優れ」

とあったが、『袖草子』には、竹婦人の序に、

「妖顔霊色はまたもとめつべし」

とある。

 竹婦人は玉菊と同時代の人物で、玉菊と面識もあったと思われる。

 一方、『根元記』の方はずっと後世に書かれたもので、長い間に潤色された玉菊の虚像から美人ということになってしまったのだろう。

 玉菊が首座にあった頃の細見で、部屋持であった花すみが享保十年の細見では座敷持となり、玉菊を抜いて二枚目に上がっている。

 細見では、山型印が部屋持遊女で、入山型印が座敷持を表わす。

 トップに挙がっているれん山(恋山)について、前出の享保五年刊の『吉原丸鑑』に、

「恋山 此家(中万字屋)にて、れん山と申は、第一の名題なり。此前のれん山も、ぜんせいのほまれかくれなかりし美君なりし。今此君も、まへ方のれん山にまさりはするとも、おとるまじき女郎」

 とあることから、恋山というのは中万字屋代々の看板女郎の名跡で、この『吉原丸鑑』に出ている恋山は二代目であったと知れる。

 玉菊が首座であった頃の細見には恋山の名はなく、享保十年の細見で突然、トップの座を占めることから、突出で出てきたものと思われる。

 従って、この恋山は三代目ということになる。

 この恋山も享保十三年の細見にはその名を見なくなる。

 恐らく、金持ちのよい客がついて身受けされたということなのだろう。

「吉原細見の玉菊」は次の言葉で結ばれている。

「後代の僕達は、玉菊を回続した虚名にまどわされて、中万字屋の名跡女郎のれん山を忘れているが、楼主勘兵衛のふところを肥やしたのは、玉菊よりも代々のれん山であったことは疑えない」

『江戸あらかると』には、「吉原細見の玉菊」の前にもう一つ玉菊に関する「玉菊は太夫ではない」という章が載っている。

 吉原の三景物の一つ、玉菊燈籠でその名が有名になった玉菊は、後世太夫であったと思われていたが、実は散茶という、太夫、格子に次ぐ階級の遊女だった。

 太夫、格子は江戸中期の宝暦年間に客である大名などの高級武士階級の没落により、相次いで姿を消し、散茶が呼び出しといわれる最高級の遊女になるのだが、玉菊が廓にあった享保の前期から、太夫、格子がなくなる宝暦年間までは、まだ半世紀程の間がある。

 玉菊の吉原に於ける職級を散茶である、と説いたのは三田村鳶魚で、大正十二年二月の『中央公論』に書いた「高級遊女」が最初だという。

 明和五年(1768)序の『俳諧けい」にも、

大名ならん 玉菊が客

 とあるそうだから、その頃には一般に、玉菊は太夫と信じられていたようである。

第103話 『玉菊(一)、伝説』

 今の日本橋人形町、堀留の近くにあった吉原が浅草奥の日本堤の地区に移転が決まったのは明暦二年(1656)のことである。

 旧吉原を元吉原、移転後の吉原を新吉原といって区別しているが、何せ明暦といえば古い時代であり、その翌年の明暦三年に振袖火事といわれる江戸大火で、江戸城をはじめとして江戸中が殆ど灰に帰したこともあって、普通にただ、吉原といえば新吉原のことを指す。

 吉原の遊女の階級は初め、太夫、格子、端の三階級だったが、寛文(1661~1672)の頃に太夫、格子の下に散茶という階級が出来、その後更に、その下に梅茶、局など次々に新しい階級が生まれ、享保の頃には八階級になっていたといわれれる。

 即ち、太夫、格子、散茶、梅茶、五寸局、三寸局、なみ局、次。

 俗に吉原の三景物といわれるのは、三月の夜桜、七月の燈籠、八月の仁和賀狂言で、その七月の燈籠というのが、玉菊追善の盆燈籠が濫觴なのである。

 新吉原角町の中万字屋勘兵衛抱えの玉菊は、三田村鳶魚にいわせれば散茶である。

 玉菊は享保十一年(1726)三月二十九日に亡くなった。行年二十五才。逆算すると、元禄十五年の生まれである。

 その玉菊について、『江戸節根元由来記』には、

「きりょう十人に勝れ、情深く、高き卑きの上下もなく、諸事行届き、よき心底の生れ付なり、誰あしくいふものなく、茶屋裏の文使のよふなるものまでも、情をかけし也」

 とある。

 玉菊は二十才の時に病気になった。酒好きで、酒のために体を悪くしたといわれる。

 玉菊が二十才の時といえば、享保六年ということになる。

 様々な神社仏閣に祈祷祈念し、何人もの名医に掛かって漸く平癒したが、医者から、

「四花くわんもんの灸治をすべし」

 といわれた。「四花くわんもん」とは灸のツボのことだという。

 玉菊は、その灸治療について中万字屋の主人に、河東節と半太夫節を交互に聞きながら灸を据えたい、といって許しを貰った。

 日限を決め、摺り物を出し、その日は中万字屋の遊女を総仕舞いとし、部屋の境の襖をすべて取り払って、浄瑠璃を聞きにくる人達に吸物、酒肴、本膳まで出して馳走した。

 大勢の人々が中万字屋にやってきて、その賑やかなことといったらなかった。

 こんな贅沢なことが出来たのは玉菊には立派なパトロンがいたからで、『江戸真砂六十帖』に奈良茂の奈良屋茂左衛門には二人の男の子があって、兄の茂左衛門が中万字屋玉菊に通ったと出ている。

 紀の国屋文左衛門の紀文と、几帳という遊女を争ったといわれる奈良茂は四代目で、玉菊のパトロンだった奈良茂はその長男で廣といった五代目である。

 これらのことは、『江戸落穂拾』の「扇面亭伝四郎」のところに詳しく書いたので、ざっと触れて置くことに留めた。

 この五代目の奈良茂は享保十年に三十二才で亡くなっている。

 この時、玉菊は二十四才であるから、この奈良茂は玉菊より八才年長ということになる。

 享保六年二十才で発病した玉菊は治癒した後、医者の勧めで贅沢三昧な灸療治をして廓の話題を浚ったが、その頃が玉菊の全盛だったと思われる。

 やがて玉菊は病気が再発して享保十一年三月二十九日に二十五才で死んだ。

 パトロンの五代目奈良茂は前年に亡くなっており、前回同様、金に糸目をつけない贅沢で行き届いた治療が受けられたか、どうか。『江戸節根元由来記』には、

「夫より後二十五歳の時、また病気にて、終には草葉の露と消うせけり」

 とあるだけで、再発の時の治療については何も書いていない。

 玉菊については、その三回忌の享保十三年に出された『袖草子』という書がある。

 河東節の玉菊追善浄瑠璃「傾城水調子」の文句と、玉菊ゆかりの人々の追悼句が載っている。

 玉菊に関する文献としては一番確かなもので、『袖草子』によって玉菊の忌日が享保十一年三月二十九日とわかるのである。

 しかし、『袖草子』は、文化・文政の頃には稀覯本になっていたようで、その為、誤った忌日が信じられたり、玉菊の墓は『袖草子』に光感寺という寺名が出ていることから同寺に葬られたと思われたのだが、度重なる火災等で墓も過去帳も失われてしまっていたので、全く玉菊とは別人の墓が玉菊の墓として墓域が整えられ、追善法要が営まれるといった随分可笑しなことが起った。

 岡野知十氏の『玉菊とその三味線』には、次のようにある。

「玉菊燈籠が起って以来、それは年々の行事となって、やがて百年そこそこになった後の世の文化文政の時代には、燈籠に玉菊の名が伝はっては居たが、玉菊の墓所はどこか、忌日はいつか、トいふやうな事は別に心にとめるものもなかったであらう。

燈籠のつけはじめさへ、元文だの、正徳だのと、区々にいひつたへられる。

玉菊といふ名が高いだけに外の遊女の挿話までが皆玉菊のものにして、玉菊に節操があったの、自害したのといひつたへられる。

それで後世『水調子』を弾くと祟りがあるなどいはれる。

いかにも燈籠に似合はしい凄い情味のあるやうになる。

その事蹟の正しいのは明かでなくなった。尤も遊女の伝などは何もさう正確にせねばならぬほどの事でもない。

興趣のあるやうに潤色しての方がなかなか面白いといへばそれもそうであるといへる」

 続けて、

「ところが丁度百年忌時代になって、考証といふ事がいひはやされて、従って、こうした随筆などがおこなはれた」

といって、京伝の『骨董集』、『奇跡考』(『近世奇跡考』)などの書名を挙げている。

 両書共、京伝の風俗考証に関する随筆で、玉菊については、『近世奇跡考』の巻五に、「万字屋玉菊の伝」と「玉菊拳まはし」の二編が出ている。

 その「万字屋玉菊の伝」に、

「玉菊曾て河東節の三絃をよくひきしゆゑに、十寸見会蘭洲(江戸町二丁目つるつたや庄次郎)もよほしにて、かの浄瑠璃を作らしむ。

おなじ時、乾什(けんじゅう)かの袖草紙(袖草子)をあらはす。玉菊、日ごろ大酒を好み、つひに酒にやぶられ、廿五才にて死せしといふ。

かの句集(『袖草子』)に、酒の事をいふたる句おほければ、さもあるべし。

水調子の文に、その醉ざめの夢の世に、とかけるもそのゆゑなり」

 蘭洲は、元祖河東と一緒に河東節を興した初代蘭洲。かの浄瑠璃というのは、玉菊追善の河東節「傾城水調子」。作詞はすぐ後に出てくる岩本 乾什である。

 乾什は竹婦人という号で初期の河東節の作詞をした俳諧師で、貴志沾洲の門人だったという。宝暦九年(1759)没、享年八十。

 岡野知十説のように、玉菊の伝説には長い間に他の遊女のエピソードも加わって、面白おかしくなっていったのかもしれないが、自害説とか、「傾城水調子」を演奏すると玉菊の亡霊が現われるといった云い伝えなどは、実際の玉菊の死と何か関係があるような気がしてならないのである。

 つまり、二十才の時の贅を尽くした治療に較べて、病いが再発した時にはパトロンの五代目奈良茂は既に亡く、かなり哀れな状況にあったと思われる。

 全盛は過ぎ、病いでやつれた玉菊に金を惜しまず通いつめるよい客がつくとは思えない。

 前が派手だっただけに、当の玉菊も辛かったであろうが、全盛の頃の玉菊によくして貰った連中や目を掛けて貰った人々には、一そう哀れに感じられたことだろう。

 こうしたことが、自害説や亡霊説と結びついた一因ではないかと思えてならない。